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荒川の思い出

「昔は荒川を泳いたもんだ・・・」「土手の上からSLに手を降ってたな~」、荒川ビジターセンターでは荒川の昔の様子を教えてくださる方が多く来られます。
また、小さい子を連れたお母さんからは「荒川にこんなに生き物がいるなんて知らなかった~~」といった声も聞かれます。
多くの人の心に残る荒川の思い出をご紹介することで、少しでも今と昔の荒川の姿に思いを馳せていただきたいと思います。

小魚とりの思い出

「荒川今昔写真展」をご観覧の方のお話

大雨が降ると、ドブ川があふれ床下・床上浸水になる家屋があった。
大人たちとは別に、子どもたちは洪水地帯で小魚が獲れるので、仲
間たちと楽しんでいた思い出がある。
(昭和20年代後半 旧千住高砂町・梅田町)


洪水の中小魚とりする子どもたち.jpg

荒川が出来た後も排水整備の問題で水が溢れ、多くの被害が出ました。しかしそんな中でも子どもたちがたくましく過ごす様子が感じられるエピソードです。

荒川の遠泳

来館者の方のお話

今は足立に住んで数十年経つけど、僕が生まれた育ったのは向島。

昭和始めの頃だけど昔四ツ木橋下流右岸に、「講水会」という水練場があり僕はそこで水泳を習っていたんだよ。
今より荒川はずっときれいで透明だったな〜。
川岸に木の枠で柵が作ってあってね、その中を泳いでいた。その枠のことを「ドック」て呼んでたなぁ。

泳ぎが上手い人は、水練場のある場所から引き潮に乗って海まで遠泳をしたよ。

河川敷には小屋があり、水泳が終わるとそこで「ゆであずき」をたべていた。
かき氷なんてつめたいものはなかったなー。泳いで体が冷えているから温かいゆであずきがちょうどよかったよ。

荒川で水泳.jpg

荒川から海まで約10kmもの距離を泳ぐなんてすごいですね。今とは違った荒川と人との関わりが伺えます。

畑仕事の間に

来館者の方の思い出

戦争中から戦後にかけて、河川敷は畑になっていて、作物を作っていたんだ。
大人が作業している間、子どもは土手でヨモギやノビルなど
食べられる植物を探すのが仕事だったよ。

S30元旦 西新井橋上流右岸田んぼ 吉田千伊知.jpg
西新井橋と田んぼ(昭和30年 撮影:吉田千伊知氏)

戦争中から戦後にかけて、河川敷には畑や田んぼがあったのですね。写真や思い出をお持ちの方がいらっしゃったら、ぜひお寄せください。

台風の思い出

荒川の昔を伝える会元会員のお話

1958年(昭和33年)9月27日 狩野川台風の時、荒川の水位は土手上から5mくらい下まで減っていたが、北側のの土手の上に消防車が何台も並んで止まり、住宅地の水をくみ上げて荒川へ流していた。

S.33台風22号(本木北町) (3).jpg
狩野川台風で浸水した街を歩く少女たち(昭和33年、本木北町、撮影:石坂満氏)

狩野川台風で荒川が決壊することはありませんでしたが、荒川の左岸側は支流からあふれた水で浸水しました。

昭和39年の東京オリンピック・パラリンピックの思い出

荒川の昔を伝える会会員のお話

足立区にも聖火ランナーが通ったので、見に行きました。アンカーの走者が直前に決まり、印象的でした。

日の丸の旗をつくって、旧足立区役所前の通りまで応援しに行きました。ランナーは堀切橋を渡って足立区に入り、旧区役所のところで休憩していました。
石井宏美 安房家 003.jpg
旧区役所前の通り(昭和30~40年代、撮影:石井宏美氏)

自分たちの街に聖火が来るのはとても印象深いですね。こんどの東京オリンピック・パラリンピックでは聖火ランナーはどこを通るでしょうか。

生きものとりをして楽しく遊んだ

荒川今昔写真展来場者の方のお話

かれこれ60年ほど前、朝から夕方までどろんこになって荒川で遊んでいた頃が懐かしく思い出されます。

特に、荒川の河川敷で魚・カニとりをしたり、オウト※をとったりしたこと…セリ、ヨメナ、ノビルもとりました。本当に楽しい日々でした。

※オウト・・・トノサマバッタのことをオウト(オート)と呼んでいたそうです。
010901トノサマバッタ.JPG

荒川ビジターセンターでも来館者の方とカニとりやバッタとりを楽しんでいます。今も昔も生きもの探しの楽しみは変わらないのですね。

荒川にあった畑

来館者の方のお話

昔、千住新橋のむこうっかわ(千住新橋と西新井橋の間、右岸側)は
トウモロコシ畑だったんだ。

土手は斜めで、坂だった。今みたいに途中に段差がなくてな。
土手の工事をしていて、何も乗っかってないトロッコがあった。
く水田風景.jpg
石坂 満氏 撮影
昭和27 ~ 28 年頃
旧西新井橋上流左岸

昭和30年代頃のお話だそうです。トウモロコシ畑もあったのですね。

荒川での障子はり

来館者の方のお話

川で障子を洗う2.jpg
荒川の水がきれいだった頃は、障子の張替えをするのに荒川まで行っていたよ。
1時間くらい川に浸しておくと、障子紙が剥がしやすくなるんだ。

水が綺麗だった頃ということで、昭和30年代より前でしょうか。イラストはスタッフのイメージです。他にも障子張りの思い出をお持ちの方がいらっしゃったら、ぜひ教えてください。

荒川からみる景色

来館者の方のお話

昭和30年代ころの記憶

石井さんスケッチ画 (1).jpg
千寿第七小学校(通称:「千七」)にかよっていた頃、学校の授業で絵を描きに外へ出るときは、たいてい荒川にいったもんだよ。
そのときはいつもお化け煙突を描いていたなぁ。

石井宏美 四本煙突 (021).jpgお化け煙突(撮影:石井宏美氏)他に描くものもなかったし、目立ってたからねぇ。
みる場所で本数は違ったかもしれないけど、毎年写生に行くと描いていたと思うなぁ。

洪水にもあったことがある。小さい頃はよく平気で汚いところを歩いていたなあ。



注:千寿第七小学校は千住龍田町にあった小学校で、平成4年に千寿第六小学校と統合し千寿桜小学校になりました。
絵は、写真を提供してくださった石井宏美さんが中学生の時に描いたものです。荒川近隣の学校では写生の時間に荒川へ行ったんですね。


大川町プールの思い出

来館者Hさん

昭和40年ころの記憶

スイカを食べる(トリミング)2.jpg俺らの時は、もう荒川では泳がなかったねー。
どっちかというと、「大川町プール」っていって、今の公園になっているところに通ってたなー。
当時こどもは10円ではいれてさ、おやから30円もらって、梅田から北千住まで10円払って電車に乗って、プールに入って帰るとちょうど30円だったんだよ。
プールには高校生くらいの監視員がいてさ、子どもたちが悪ふざけしているとその監視員からおこられてプールサイドに正座させられていた。そうするとあとで親が怒鳴りこんできたりしてたなー。

プールから出ると向かいの八百屋でスイカを売っていて、自分の小遣いで買って店の前に座ってかじっていた。うまかったなー。

注:「大川町プール」は現在の「千住公園」(足立区千住大川町)付近にあったプールです。


荒川の水練場(プール)の思い出

荒川の昔を伝える会Uさんの思い出

昭和10~15年ころの記憶

CCF20150311_00000.jpg自分は梅田に住んでいたが、夏休みには袋にお弁当をいれて、千住新橋を歩いてわたって水練場に通っていた。
3~4年生くらいまで通った。自分は最後まで泳げなかったが、バタ棒につかまって、バタ足をしていた。
当時は学校のプールなど無いので、親が水練場に通わせてくれていた。
水練場での遊びとして、川底に沈んでいた瓶を泳いで取ってくるという遊びが楽しかった。
瓶には「1等」「2等」等と書いてあって、一等の紙をとった人が勝ちという遊び。

水練場で泳ぎ終わった後は土手の上にあるシロップ屋でシロップを飲むのが楽しみであった。当時の価格で1~2銭くらいだったと思う。


荒木せいいち氏 水練場(講武館)、バタ棒で泳ぐ.jpg
千住新橋付近の水練場の様子
<昭和9年荒木精一氏撮影>

西新井橋付近のボート乗り場

荒川ビジターセンター来館者

昭和30年頃の記憶

CCF20150311_00001.jpg西新井橋のたもとにボート乗り場があって、小学生の友人とお金を出し合って乗って遊んだ。当時はだるま船がよく通っていて、手漕ぎのボートはだるま線が通るたびに、木の葉のように揺れて怖かった。



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