荒川の思い出

「昔は荒川を泳いたもんだ・・・」「土手の上からSLに手を降ってたな~」、荒川ビジターセンターでは荒川の昔の様子を教えてくださる方が多く来られます。
また、小さい子を連れたお母さんからは「荒川にこんなに生き物がいるなんて知らなかった~~」といった声も聞かれます。
多くの人の心に残る荒川の思い出をご紹介することで、少しでも今と昔の荒川の姿に思いを馳せていただきたいと思います。


荒川で魚つり

「荒川今昔写真展」来場者の方より

令和511月に行った「あらかわ文化祭」の「荒川今昔写真展」で、荒川で釣りをしている写真を見た方から、昔の釣りについてのお話しを聞くことができたので、紹介します。
 
「平成2年頃(1990年)ですが、川で主人がハゼを釣ってきて家で調理するんですけど、それが臭くて嫌で仕方ありませんでした。今は昔と比べ川からの匂いも少なくなり、荒川の水も良くなってきたと思います。」

現在の虹の広場付近で魚つりをする子どもたち
昭和52年(1977年)千住新橋下流右岸 撮影者:勝間榮雄氏
 

高度経済成長期に悪化した荒川の水質も、現在は下水道や法令の整備、環境意識の高まりなどによって良くなってきました。
今でも川の水温が高くなる5月頃は「テナガエビ釣り」、7月から10月頃は「ハゼ釣り」など釣りを楽しむ方の姿が見られます。
足立区内の荒川では、誰でも釣りを楽しむことができるので、荒川で釣りを楽しんでみませんか?


富士山の思い出

「荒川の昔を伝える会」会員より

「富士山が好きでね...」
「子どものころ、河川敷で遊んでいると富士山がよく見えたよ。どこからでも見えたんだけど、気が付いたらどんどんビルが建っちゃって、隠れちゃうから」「富士山がよく見える場所を探して写真を撮っているんだよ」
高度経済成長期にビルが建っていくにつれて、荒川から見る風景も変化してきました。

昭和39年頃 千住新橋より見る富士山 石坂満氏撮影
昭和56年頃 千住新橋より見る富士山 石坂満氏撮影
令和5年 千住新橋より見る富士山 荒川ビジターセンター撮影

 
同じ場所から撮った富士山の写真。ビルによって富士山は隠れてしまいました。昔の荒川の風景を思い浮かべながら富士山が見える場所を探してみるのもいいですね。


アーケード街の思い出

「荒川の昔を伝える会」会員より

「北千住駅の前から千住新橋の少し手前までアーケード街があったんだ。路面電車の駅やバス停もあって、利用する人も多かったよ。」
「日光街道を広くするために街道沿いのアーケード街は無くなってしまったけれど、今でも北千住駅前にはアーケード街を見ることが出来るね。」

(昭和40年代前半 日光街道荒川ビジターセンター前交差点付近 石井宏美氏撮影)
昭和3年に千住銀座会が結成され、アーケード街は昭和中期ごろには「横向きのデパート」としてとても賑わいました。アーケード街には多くの人が写り、バスと路面電車も見ることができるので利用者が多かったことが伺えます。
 
(昭和40年代後半 日光街道、荒川ビジターセンター前交差点付近 石井宏美氏撮影)
渋滞が激しくなった日光街道を拡幅するために道路横の商店などの立ち退きが進められました。
アーケード街の屋根の向こう側には、取り壊された建物跡が見えます。

 
 
日光街道の交通量の増加に伴い、路面電車の廃止や道路の拡幅が行われました。現在、日光街道のアーケード街は高層マンションに変わっています。
千住の街を利用する人々の生活に合わせて、時代と共に街の形が変わっていったことを伺えるお話を聞くことが出来ました。

 


荒川を渡る鉄道との思い出

「荒川の昔を伝える会」会員より

子どものころ、荒川を渡る貨物列車に手を振ると、列車から手を振り返してくれたよ。
土手の踏切から線路に入り、橋を渡ろうとしたら、保線の人にひどく叱られた。踏切が無くなった時は、土手上を行かれなくなり違和感にとまどったよ。


昭和40 年ころ 常磐線鉄橋 中村一雄氏撮影
現在の常磐線はフェンスでおおわれているため、線路を渡ることはできませんが、過去には土手の上に踏切がありました。
 


魚とりと水質変化

「荒川の昔を伝える会」会員より

「子どもころ、学校の帰りに荒川河川敷にあった天然プールや水路でよく魚とりをしていたよ。
大きなサイズの魚がとれると近くで焼いてくれてね。おやつにしていたな」
「その後、だんだんと川が汚くなっちゃってね。橋を渡るたび臭いに悩まされたよ」
 
 

昭和40年代 魚とり(本木小から本木西町) 石坂満氏撮影
 

高度経済成長期の都市開発が進むと工場排水や生活排水などが大量に流れ込み、川の水質は悪化しました。そのため、魚とりもできなくなってしまったそうです。
近年は工場の移転や排水施設の整備が進み、水質が回復しています。
荒川の移り変わりについてうかがえた、お話しでした。


荒川に生息する雷魚との思い出

来館者の方より

荒川に生息する雷魚とも呼ばれる、外来種のカムルチーを紹介したところ、昭和の頃の思い出を伺うことができました。
 
「荒川に雷魚がいるの?子どもの頃の縁日で、雷魚釣りっていうのがあったんだ。
餌をつけて釣るんじゃなくて、いかりの様な形の針で引っかけて釣るんだ。でも、暴れる力が強くて、すぐ糸が切れちゃうんだよな。他にも同じ仕掛けでうなぎ釣りっていうのがあったよ。」
 

カムルチー 令和4年 新田わくわく♡水辺広場にて
 
荒川の昔を伝える会の会員さんに確認したところ、確かに雷魚釣りと、うなぎ釣りがあったそうです。

雷魚は30cm程の大きさだったとのことですが、そのぐらいの大きさとなると暴れる力は強そうです。
カムルチーは在来の魚やカエル、昆虫などを捕食して生態系に影響を与えることが懸念されています。


ヨットの思い出

来館者の方より 昭和30年頃のお話

「貸しボート屋では、ボートの他にヨットも貸し出していた。
ボートより大きなヨットは憧れだった。
ボートやヨットで遊んで良い範囲は、貸しボート屋のある上流側と下流側の橋や鉄橋をくぐらないのがルールだったが、ほとんど守られていなかった。
千住新橋の貸しボート屋でヨットを借りて、風にのって上流側の西新井橋をくぐったこともあるが、帰りに(潮が上がって)ヨットの帆が西新井橋にぶつかりそうになることがあった。
川の流れや潮の満ち引きは、川遊びをしながら覚えた。」
 
※現在よりも川面(かわも)での遊びが日常的だったことがうかがえるお話です。

 
 

昭和30~31年ころ 千住新橋上流側 吉田千伊知氏撮影
 
昭和30年ころ 千住新橋上流側 三木美代子氏所蔵
 
 

水辺の思い出

来館者の方より

 
「私の祖父は、荒川放水路を掘ったころのことを知っていると言っていた。
 昭和の初めごろだと思うが、水練場でよく子どもがおぼれたそうだ。原因は分かっていて、
 川の中の井戸から冷たい水が湧いていて、そこに入り込むとおぼれてしまったんだそうだよ。」
 
※荒川放水路の開削工事では必要とされた用地も広大で、1300世帯が移転を余儀なくされたそうです。
 生活に欠かせない井戸もきっと数多くあったのでしょうね
 

(昭和9年 千住新橋下流右岸 荒木良二氏撮影)
写真は昭和9年に撮影された講武館(こうぶかん:千住新橋の下流にあった水練場の一つ)の様子。
川岸から10mくらいの所に伝馬船(てんません)が浮かんでいて、その間を泳いでいたそうです。
 
 
気温が上がってくると、水辺遊びをすることも多くなります。
荒川下流部は潮の満ち引きの影響で時間によって水位が変ります。
川で泳ぐことは無くても、水辺に行くときは十分気をつけましょう。

水辺の思い出

来館者の方より

 
「私が幼稚園か小学校低学年くらいの時(昭和40年代)は、もう水練場はなかったけれど、昔の千住新橋の橋の上から川へ飛び込んでいるのを見たよ。そう、この写真の、橋の方から飛び込むんだ。」
 

(昭和10年 千住新橋下流 荒木良二氏撮影)
当時の千住新橋は今より低い位置にかかっていました。
土手のかさ上げに伴い、昭和53年(上り車線)から58年(下り車線)にかけて、
現在の千住新橋にかけ替わりました。
 

「この頃はボート屋がたくさんあって、手漕ぎボートの他にも帆が付いた船や、小さなモーターボートも見かけたな。川まで桟橋みたいなのが伸びていたね。」
 

(昭和20年代後半 「写真で見る足立区40年のあゆみ」より)
 
今でもときおりボート競技の練習やウェイクボードを楽しむ人々の姿が見られます。
時代は変わっても、荒川は水辺の楽しみを提供しているのですね。

狩野川台風の思い出

「あらかわ発見展」来場者の方々より

 令和3116日、7日に学びピア21講堂にて「あらかわ発見展」を開催し、「荒川の昔を伝える会」協力のもと、昭和から令和の荒川周辺の写真を展示ました。
昭和33年の狩野川台風通過後の写真を見た方から、以下の感想をいただきました。
 
・子どもの頃、台風が来た時に畳や家具が水に浸からないように、高いところへよけたなぁ。中々水が引かなかった。雨戸をいかだにしたのを覚えているよ。
・小学校の2階に避難した人たちが滞在していたので、授業は1階でやったよ。
・令和元年の台風の時は、早めに避難しましたね。

(昭和33年 木村知義氏撮影)
 

昭和33年の狩野川台風では岩淵水門観測所でA.P.7.48mの水位を記録し、荒川支流の芝川があふれたことや、街の排水が追い付かず、浸水被害が起きました。避難所となった小学校でも床上浸水したところもありました。令和元年東日本台風では同観測所で、A.P.7.17m最高水位を記録しました。


カニとりの思い出

来館者の方より

・子どもが小さいころ、荒川にカニとりに行った。石をひっくり返すと、隠れている。
 家に持ち帰って飼っていたら、夜に逃げて、残念ながらゴキブリ用の粘着シートにくっついてしまったカニも…。
・夜になると色んなところを歩き回っていたみたい。
 

(昭和47年ごろ 石坂満氏撮影)
 

昔よくカニやザリガニを捕まえて楽しんだ、というお話を時折お聞きします。
現在も水際へ行くとベンケイガニやクロベンケイガニが歩いている様子を見られます。今も昔も楽しまれているのですね。


1964年東京オリンピック

「荒川の昔を伝える会」会員より

・開会式前日まで雨だった。当日はとてもいい天気で、自衛隊機が国立競技場上空で五輪を描くのを見た。その後、家の上を荒川にむかって飛行機が飛んで行った。すごい迫力だった。
 
・予選のチケットが小中学校に出回ったので、観に行った人もいた。代々木の会場で行われた本戦は、お金がなくて観られなかったから会場の周りをうろうろした。

国道4号を千住大橋へ向う聖火リレー 昭和39年10月 足立区立郷土博物館所蔵
 
「聖火リレーコース」図 昭和39年10月 足立区立郷土博物館所蔵
 

1枚目の写真は1964107日に行われた聖火リレーの様子。
聖火は葛飾区から、堀切橋を渡って足立区に入りました。そして旧足立区役所前を経て、千住大橋から荒川区へつなげられました。


足立の小学校

「荒川の昔を伝える会」会員より

千寿旭小学校と千寿第一小学校が統廃合して、今の千寿本町小学校ができたんだ。学校移転時には子どもたちも協力して学校の物品を千寿本町小学校まで運んだね。使われなくなった千寿旭小学校の校舎は壊されて学ピア21が建てられたんだよ。

千寿旭小の屋上プール 
(年代不明、足立区立郷土博物館提供)
 
千寿旭小跡地 
(1996年6月、吉田千伊知氏撮影)
 

かつて足立区には、今以上に子どもたちがたくさんいて、小学校もたくさんありました。
児童・生徒数の減少に伴い、小中学校の統廃合が進んでいます。


筑波山が見える風景

荒川今昔写真展来場者の方より

小学校の校歌の一部に「筑波山高くそびえ」という歌詞があったけれど、自分が通っていたころにはすでに高い建物ばかりでとても見えそうになかった。
展示の写真の中に千住から筑波山がきちんと見えるものがあり、「ああ当時は立派な山が見えたんだなあ」と感動した。

荒川を渡る鉄橋越しに見える筑波山。 
(年代不明、石坂満氏撮影)
 
今は晴れて空気が澄んだ日に学びピアのレストランなど高いところへ行かないと筑波山を見ることはできませんが、ビルなどが少なかったころはもっと低い位置からでも筑波山を望むことができたのでしょう。                                          

旧千住新橋と渋滞

来館者の方と「荒川の昔を伝える会」会員より

千住車庫から、千住新橋、千住大橋を渡って新橋まで行くバスがあったんだよ。
今の千住新橋は上りと下り、2本の橋が架かっているけど、当時は1本しかなくて千住車庫から千住大橋の辺りまで渋滞することがあったよ。
本来なら40分くらいで行けるのに、1時間30分もかかることがあったね。この頃は千住4丁目から東京方面に都電が走っていたけど、車と一緒に渋滞していたなぁ。

旧千住新橋。写真左には現在の千住新橋が見える。 
(昭和53年頃 千住新橋 吉田千伊知氏撮影)
 
日光街道を走る都電
(昭和40年頃 千住大橋近く 石坂満氏撮影)
 

大正13年に開通した旧千住新橋は1本だけの橋でしたが、堤防のかさ上げに伴いかけかえられることとなりました。
昭和53年に上り線、昭和58年に旧千住新橋があった位置に下り線が開通しました。                                          


四つ手網で魚とり

来館者の方より

昔は荒川の扇大橋の方に「日の丸プール」という池があって、休みになると四つ手網を持って生きものを捕まえに行ったよ。
魚を捕まえるのが上手なお兄さんがいて、僕らがすっぽり収まってしまうような大きな四つ手網を持っていたのを覚えている。
ウナギ、ライギョ、コイ、なんかがたくさん捕れたよ。

(昭和30年代 江北橋下流右岸 石坂満氏撮影)

荒川今昔写真展

「荒川今昔写真展」来場者の方々より

令和2年2月18日~28日、足立区役所にて「荒川今昔写真展」を実施しました。
「荒川の昔を伝える会」協力のもと、昭和から現在までの約70枚の写真を展示し、多くの方にご来場いただきました。
来場者の方からは、
「泥だらけになって河川敷で遊んだ記憶や、疎開したときの記憶など色々思い出しました。」
「常磐線を利用していたので、お化け煙突はさんざん見ていたよ。線路がカーブしているから、本数が変わって見えるんだ。懐かしいねぇ。」
などの感想をいただきました。

(荒川今昔写真展のようす 令和2年2月 荒川ビジターセンター撮影)
 
(お化け煙突周辺の商店 昭和30年代 西野惠二氏所蔵)

台風と荒川

「荒川の昔を伝える会」会員より

「台風の日よりも、その翌日や翌々日の方が、秩父の方(荒川の上流)から流れてきた水で増水して危ないから、「荒川には行くな」と言われていました。材木がたくさん流れてきて、その上にヘビが乗っていたこともありました。」
 
足立区内に大きな被害をもたらした台風はいくつかありますが、中でも昭和33年に狩野川台風、34年に伊勢湾台風と、2年連続で大きな台風に見舞われました。
令和元年10月に発生した台風19号は、雨量・勢力共に狩野川台風に匹敵すると言われています。西新井の水位観測所の記録によると、このときも荒川の水位が一番高かったのは台風が通過した翌日でした。
 

(昭和33年頃 扇大橋付近 石坂満氏撮影)
 
(令和元年10月13日 扇大橋下流右岸 荒川ビジターセンター撮影)

家族でボートを楽しむ

来館者の方の思い出

西新井橋の少し上流のところに貸しボート屋があり、家族で乗った思い出
 
「子どもにとってボートに乗せてもらうのは贅沢な遊びなので、家族で行ったときのことです。ボートの上から水に手を入れたり、遠くにいるボートの人に手をふったり、ボートが傾くとキャーキャー大声をあげたり、写真をとってもらったりして、ボート乗りは楽しかった良い思い出です。」
 

(昭和39年頃 旧西新井橋付近 佐藤為重氏撮影

荒川近くの田園風景

来館者の方の思い出

家は農家をやっていて、石垣の石と石のすきまには、ベンケイガニがすんでいた。
 
私が子どものころ(昭和30~40年代)、区内のあちこちに水路が張り巡らされてたよ。たくさんあった水路も、埋められたり地下水路になったりして今では少なくなってしまった。
野菜を洗う大きなたらいに座布団をしいて、一人用のたらい船を作り、農業用の水路を手でこいで遊んだ。
 

(年代不明、写真は見沼代用水のようす。石坂満氏撮影

荒川と船

来館者の方の思い出

 
私が小学生の頃(昭和30年頃)、千葉の浦安辺りで潮干狩りの遠足があったんだ。
千住新橋の近くにかかる桟橋から、屋形船のような船に乗って千葉まで行き、帰りも船で戻ってきた。今でいうところの遠足バスと同じ感覚だね。
荒川には他にも、貸しボート・貸しヨットがあって、よく遊んだよ。野菜を船で運んでいる人もいたね。
現代のバスやトラックのように、当時は「船」の存在がもっと身近で普通だったな。
 
 

(「写真で見る足立区40年のあゆみ」より引用。千住新橋上流部左岸から撮影

土手で凧あげ

来館者の方の思い出

 
冬になると駄菓子屋に凧が並ぶんだ。1つ20~30円くらいだったかな。
買ってきた凧は糸が短いから、付け足して長さを調節するんだ。あとは新聞紙を細長く切った「しっぽ」を凧につければ完成。これがないと凧があがらないんだ。
家の周りは電線があるから、荒川の広い土手であげていたよ。
糸が切れて凧がどこかへ飛んでいってしまう子が必ずいたね。冬は電線に絡まった凧をよく見かけたよ。
 
 

(凧あげ 西新井橋左岸 昭和50年頃 撮影者:石坂満 氏)

洪水の記憶

「荒川の昔を伝える会」会員より

 
昭和30年代以降に排水場やポンプ場が整備されるまで、足立区は幾度も洪水に見舞わていたんだ。
中でも昭和33年に発生した狩野川台風による被害は凄まじかった。荒川の堤防は決壊しなかったものの、支流の芝川があふれて荒川左岸側の広い範囲が浸水したんだ。
荒川の上流からは色々なものが流れてきて、豚や鶏が流されてきたこともあったよ。
 

(水に浸る日光街道 梅田2丁目 昭和33年 撮影者:木村知義 氏)

たらい舟で遊ぶ

来館者の方の思い出

 
野菜と米をつくる農家だったんだ。
子どもの頃に野菜を洗う大きなたらいに座布団をしいて、一人用のたらい船を作り、農業用の水路を手でこいで遊んだよ。
昔はあちこちに張り巡らされていた水路だけど、今は暗渠になってしまったりして見られなくなってしまったね。
 
 

(舎人付近の見沼代用水。ネギを洗っている。写真は戦後、昭和36年の様子。所蔵:郷土博物館データベース)

橋を渡る毎日

来館者の方の思い出

 
市電に乗って女学校へ行くために、毎朝、千住新橋を渡って四丁目まで来ていたわ。
たくさん橋を歩いている人がいて、おつとめさんも歩いていたのよ。
千住新橋を降りたあたりに映画館があって、夏になると絽の着物を着て見に行くのがとっても楽しみだった。
チャンバラ映画とかやっていたわね。まわりもとてもにぎやかで、お店がたくさん並んでいたわね。
昭和15年ごろ、わたしが小学生の頃の話。高い建物もなくて、今はずいぶん変わったわね。
 

(現在の千住三丁目付近から、荒川方面(北)を望む。写真は戦後、昭和32年の様子。所蔵:郷土博物館データベース)

土手でスキーをした思い出

来館者の方の思い出

 
土手に雪が積もったら、スキーをやったよ。
その頃はスキー板なんて持っていなかったから、木の板などでスキーをつくったんだ。
足と板は何で固定したか忘れたけど、あるものを使って楽しんだよ。
スキーの他に雪だるまを作ったり、雪合戦をしたりして遊んでいたね。
(年代不明)
 

(こちらはしっかりとしたスキー板で滑っている 千住新橋付近右岸の河川敷 昭和42年2月12日 撮影:吉田孝子氏)

今も雪が降った日には、河川敷に作られた雪だるまを見かけることがあります。雪で遊ぶ楽しさは、今も変わらないようです。


都電(市電)の思い出

「荒川の昔を伝える会」会員より

 
千住新橋の北側(左岸)に住んでいて、千住四丁目からよく都電(当時は市電)を利用していた。
 
千住四丁目の駅から市電に乗り降りするために、たくさんの人が橋を渡っていたよ。
 
バスの停留所も家の近くにあったけれど、乗り換えるたびに運賃が必要だったから、目的地まで乗り換え切符を買える市電のほうが結果として安かった。
 

(写真:足立区立郷土博物館所蔵)

現在都電は荒川線を残すのみですが、以前は千住四丁目~水天宮前(21系統)の路線もありました。千住四丁目まで開通した昭和3(1928)年から昭和18(1943)年までは「東京市」だったので、当時は「市電」と呼ばれていました。


荒川で土手すべり

「荒川の昔を伝える会」の会員の皆さんより

 
昭和30年頃、まだプラスチックのそりはなく、トタン板の切れ端や古いござ(畳表)、こもなどにまたがって滑っていた。
父親に手伝ってもらって手作りの草そりを作った。そりの滑る部分は、窓枠に使われていたような角材やたる木を使った。みかん箱やりんご箱の板もはがして使った。
ちょっとした草の凹凸でひっくり返ってしまうが、草の上だからどこも痛くなかった。何回も滑っては転んでを繰り返して、だんだん転ばないですべるコツをつかんだ。土手すべりは本当に楽しかった。
 

 (画:國谷 崇氏)

当時、遊び道具は自分たちで作ることが当たり前だったそうです。昔遊びは子どもたちの知恵がたくさん詰まっていて面白いですね。冬には荒川ビジターセンターでもダンボールで土手すべりができるので遊びに来てください。


昔の荒川でとった虫、みられた虫は?

「荒川の昔を伝える会」の会員の皆さんより

 
今から80年ほど前、昭和のはじめ頃の荒川では、どんな虫がみられたのでしょうか。当時呼ばれていた名前でご紹介します。
 
○トンボの仲間
・オニヤンマ ・ギンヤンマ ・シオカラトンボ(メスはムギワラトンボ) ・赤とんぼ
 
○バッタの仲間
・オート(トノサマバッタ) ・イナゴ ・コメツキバッタ (ショウリョウバッタ) ・マツムシ ・コオロギ
 
○他の生きもの
・カマキリ ・ケラ ・タマムシ ・アメンボ ・ゲンゴロウ ・ホタル

(虫とり 昭和46年 撮影:石坂満氏)

今も荒川河川敷にたくさんいるバッタやトンボの仲間も、今では荒川下流では見ることのできないホタルもいたのですね。「こんな名前で呼ばれていたよ」という生きものをご存じの方がいらしたら、荒川VCまでぜひお知らせください。


野球をして遊んだ

「荒川今昔写真展~写真で放水路さんぽ~」ご来場者のお話

 
グラウンドではなく、河川敷の空いているところでよく野球をやっていた。
川にボールが入ると野球ができなくなる。ボールは貴重だったし、もちろんユニフォームやスパイクもなく、野球帽だけだった。
(昭和30-40年代)

(千住新橋付近の河川敷 昭和32年 撮影:吉田千伊知氏)

当時、球技で遊ぶといえば野球だったそうです。巨人軍の長嶋・王の両選手など人気があった頃です。河川敷は広くて野球にはもってこいですね。


小魚とりの思い出

「荒川今昔写真展」をご観覧の方のお話

 
大雨が降ると、ドブ川があふれ床下・床上浸水になる家屋があった。
大人たちとは別に、子どもたちは洪水地帯で小魚が獲れるので、仲
間たちと楽しんでいた思い出がある。
(昭和20年代後半 旧千住高砂町・梅田町)
 
 

荒川が出来た後も排水整備の問題で水が溢れ、多くの被害が出ました。しかしそんな中でも子どもたちがたくましく過ごす様子が感じられるエピソードです。


荒川の遠泳

来館者の方のお話

 
今は足立に住んで数十年経つけど、僕が生まれた育ったのは向島。
 
昭和始めの頃だけど昔四ツ木橋下流右岸に、「講水会」という水練場があり僕はそこで水泳を習っていたんだよ。
今より荒川はずっときれいで透明だったな〜。
川岸に木の枠で柵が作ってあってね、その中を泳いでいた。その枠のことを「ドック」て呼んでたなぁ。
 
泳ぎが上手い人は、水練場のある場所から引き潮に乗って海まで遠泳をしたよ。
 
河川敷には小屋があり、水泳が終わるとそこで「ゆであずき」をたべていた。
かき氷なんてつめたいものはなかったなー。泳いで体が冷えているから温かいゆであずきがちょうどよかったよ。
 

荒川から海まで約10kmもの距離を泳ぐなんてすごいですね。今とは違った荒川と人との関わりが伺えます。


畑仕事の間に

来館者の方の思い出

 
戦争中から戦後にかけて、河川敷は畑になっていて、作物を作っていたんだ。
大人が作業している間、子どもは土手でヨモギやノビルなど
食べられる植物を探すのが仕事だったよ。
 

西新井橋と田んぼ(昭和30年 撮影:吉田千伊知氏)

戦争中から戦後にかけて、河川敷には畑や田んぼがあったのですね。写真や思い出をお持ちの方がいらっしゃったら、ぜひお寄せください。


台風の思い出

荒川の昔を伝える会元会員のお話

 
1958年(昭和33年)9月27日 狩野川台風の時、荒川の水位は土手上から5mくらい下まで減っていたが、北側のの土手の上に消防車が何台も並んで止まり、住宅地の水をくみ上げて荒川へ流していた。
 

狩野川台風で浸水した街を歩く少女たち(昭和33年、本木北町、撮影:石坂満氏)

狩野川台風で荒川が決壊することはありませんでしたが、荒川の左岸側は支流からあふれた水で浸水しました。


昭和39年の東京オリンピック・パラリンピックの思い出

荒川の昔を伝える会会員のお話

 
足立区にも聖火ランナーが通ったので、見に行きました。アンカーの走者が直前に決まり、印象的でした。
 
日の丸の旗をつくって、旧足立区役所前の通りまで応援しに行きました。ランナーは堀切橋を渡って足立区に入り、旧区役所のところで休憩していました。

旧区役所前の通り(昭和30~40年代、撮影:石井宏美氏)

自分たちの街に聖火が来るのはとても印象深いですね。こんどの東京オリンピック・パラリンピックでは聖火ランナーはどこを通るでしょうか。


生きものとりをして楽しく遊んだ

荒川今昔写真展来場者の方のお話

 
かれこれ60年ほど前、朝から夕方までどろんこになって荒川で遊んでいた頃が懐かしく思い出されます。
 
特に、荒川の河川敷で魚・カニとりをしたり、オウト※をとったりしたこと…セリ、ヨメナ、ノビルもとりました。本当に楽しい日々でした。
 
※オウト・・・トノサマバッタのことをオウト(オート)と呼んでいたそうです。

荒川ビジターセンターでも来館者の方とカニとりやバッタとりを楽しんでいます。今も昔も生きもの探しの楽しみは変わらないのですね。


荒川にあった畑

来館者の方のお話

 
昔、千住新橋のむこうっかわ(千住新橋と西新井橋の間、右岸側)は
トウモロコシ畑だったんだ。
 
土手は斜めで、坂だった。今みたいに途中に段差がなくてな。
土手の工事をしていて、何も乗っかってないトロッコがあった。

(昭和27~28 年頃、旧西新井橋上流左岸、撮影:石坂満氏)
 

昭和30年代頃のお話だそうです。トウモロコシ畑もあったのですね。


荒川での障子はり

来館者の方のお話

 

荒川の水がきれいだった頃は、障子の張替えをするのに荒川まで行っていたよ。
1時間くらい川に浸しておくと、障子紙が剥がしやすくなるんだ。
 

水が綺麗だった頃ということで、昭和30年代より前でしょうか。イラストはスタッフのイメージです。他にも障子張りの思い出をお持ちの方がいらっしゃったら、ぜひ教えてください。


荒川からみる景色

来館者の方のお話

昭和30年代ころの記憶

 
千寿第七小学校(通称:「千七」)にかよっていた頃、学校の授業で絵を描きに外へ出るときは、たいてい荒川にいったもんだよ。
そのときはいつもお化け煙突を描いていたなぁ。
 
他に描くものもなかったし、目立ってたからねぇ。
みる場所で本数は違ったかもしれないけど、毎年写生に行くと描いていたと思うなぁ。
洪水にもあったことがある。小さい頃はよく平気で汚いところを歩いていたなあ。
写真:お化け煙突(撮影:石井宏美氏)
 

注:千寿第七小学校は千住龍田町にあった小学校で、平成4年に千寿第六小学校と統合し千寿桜小学校になりました。
絵は、写真を提供してくださった石井宏美さんが中学生の時に描いたものです。荒川近隣の学校では写生の時間に荒川へ行ったんですね。

大川町プールの思い出

来館者Hさん

昭和40年ころの記憶

 

俺らの時は、もう荒川では泳がなかったねー。
どっちかというと、「大川町プール」っていって、今の公園になっているところに通ってたなー。
当時こどもは10円ではいれてさ、おやから30円もらって、梅田から北千住まで10円払って電車に乗って、プールに入って帰るとちょうど30円だったんだよ。
プールには高校生くらいの監視員がいてさ、子どもたちが悪ふざけしているとその監視員からおこられてプールサイドに正座させられていた。そうするとあとで親が怒鳴りこんできたりしてたなー。
 
プールから出ると向かいの八百屋でスイカを売っていて、自分の小遣いで買って店の前に座ってかじっていた。うまかったなー。

注:「大川町プール」は現在の「千住公園」(足立区千住大川町)付近にあったプールです。


荒川の水練場(プール)の思い出

荒川の昔を伝える会Uさんの思い出

昭和10~15年ころの記憶

 

自分は梅田に住んでいたが、夏休みには袋にお弁当をいれて、千住新橋を歩いてわたって水練場に通っていた。
3~4年生くらいまで通った。自分は最後まで泳げなかったが、バタ棒につかまって、バタ足をしていた。
当時は学校のプールなど無いので、親が水練場に通わせてくれていた。
水練場での遊びとして、川底に沈んでいた瓶を泳いで取ってくるという遊びが楽しかった。
瓶には「1等」「2等」等と書いてあって、一等の紙をとった人が勝ちという遊び。
 
水練場で泳ぎ終わった後は土手の上にあるシロップ屋でシロップを飲むのが楽しみであった。当時の価格で1~2銭くらいだったと思う。
 

千住新橋付近の水練場の様子
<昭和9年荒木精一氏撮影>

西新井橋付近のボート乗り場

荒川ビジターセンター来館者

昭和30年頃の記憶

西新井橋のたもとにボート乗り場があって、小学生の友人とお金を出し合って乗って遊んだ。当時はだるま船がよく通っていて、手漕ぎのボートはだるま線が通るたびに、木の葉のように揺れて怖かった。

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